温山荘の由来
当園は、明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁により、この地に大正初期から造園されました。
「温山荘」の名称は“温山”の雅号を持つ翁の求めに応じて、東郷平八郎元帥により命名されました。当初は翁の健康維持のために使用していましたが、在世中に一般人にも開放されるようになりました。翁の没後はその遺志により「財団法人琴ノ浦温山荘園」(現 公益財団法人:平成23年7月に認定)を設立し、当財団が管理にあたっています。
平成22年、文化庁より庭園は国指定の名勝に、建造物は重要文化財に指定されました。
新田長次郎翁
1857(安政4)年に愛媛県温泉郡味生村山西(現 愛媛県松山市山西町)で生を受け、20歳の時に大阪に出奔、1885(明治18)年に創業し、その3年後に我が国で初の動力伝動用革ベルトの製造に成功しました。
その後、世界に誇るベルト総合メーカー、ニッタ株式会社(東証プライム市場)の前身である、新田帯革製造所を創業しました。
1909(明治42)年長次郎は、新しい希望が湧出した幕末の動乱の時代に感応し、燃ゆるがごとき青雲の志を胸に実業界に船出しました。艱難辛苦をものともせず、幸い運も味方して事業は順調に拡大、大阪屈指の資産家になりました。
その一方社会貢献についても積極的でありました。松山高等商業学校(現 松山大学)の創設者の一人であり、大阪市では有隣尋常小学校を開校し、12年後には大阪市にすべてを寄贈しました。教育を通じて社会に貢献したいという考え方によるものです。
また、所有していた北海道十勝の農場を農地改革が行なわれる以前から、順次小作農に開放しました。小作争議は皆無であったと記録されています。
温山荘園は長次郎没後、基本財産を付して財団法人化し、翁の意思を後世に伝えています。
こころやすらぐ景観美
庭園内は松林が美しく繁り、時おり魚の跳ねる音やカワセミなどの野鳥の囀りが静けさを一層際立たせ、藤やツツジの時期には庭園を華やかに彩ります。
近代和風建築の主屋、茶室などをゆったりと鑑賞したり、座敷に座って庭の全景を眺めたりしながら心安らぐひと時を過ごすことができます。
作庭は、武者小路千家の家元名代であった木津宗泉の指導で完成し(主屋の設計は、木子七郎)、開園当時は、皇族の方々や官僚他著名人が多数来園されました。紀州随一の大庭園(18,000坪)です。
温山荘園年譜(主なもの)
設 立 :真野文二博士(九州帝大初代総長)の勧奨
建屋の設計:木子七郎(長女の婿)
庭の設計 :武者小路千家、家元名代 木津宗泉の指導
和暦 | 西暦 | 長次郎翁年齢 | 事項 |
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明治 45 | 1912 | 56 | 別荘敷地選定、別荘造営着手 |
大正元年 | 1912 | 56 | 鋤入式を実施(11月) |
大正 2 | 1913 | 57 | 浜座敷竣工、矢ノ島東側中腹の亭舎が竣工 |
大正 4 | 1915 | 59 | 矢ノ島の隧道が完成、主屋上棟式 |
大正 5 | 1916 | 60 | 八角亭竣工、南面築山の造成、西池泉庭の中島亭竣工 運動場造成、庭門の設置 |
大正 8 | 1919 | 63 | イナ池の埋立 |
大正 9 | 1920 | 64 | 茶室「鏡花庵」竣工 |
大正 13 | 1924 | 68 | 主屋東面の増築部分完成 |
昭和 3 | 1928 | 72 | つくばい、古金灯籠、伴待部屋竣工 |
昭和 4 | 1929 | 73 | 鉄骨の倉庫、正門設置 |
昭和 17 | 1942 | ― | 財団法人琴ノ浦温山荘園設立 |
昭和 31 | 1956 | ― | 入園有料化 |
平成 10 | 1998 | ― | 登録有形文化財 |
平成 14 | 2002 | ― | 庭園が海南市の名勝に指定 |
平成 19 | 2007 | ― | 庭園が和歌山県の名勝に指定 |
平成 22 | 2010 | ― | 庭園が国の名勝に指定、建造物が国の重要文化財に指定 |
平成 23 | 2011 | ― | 公益財団法人となる |